奇跡の軍艦 駆逐艦春風 戦争体験と証言

奇跡の軍艦 駆逐艦 春風

  戦争体験と証言  渡辺 保 著

表紙.jpg 序章 「春風」は如何に戦ったか 

「春風」戦闘概要

戦艦「大和」や「武蔵」。太平洋戦争緒戦に真珠湾を攻撃した飛行機。それを発艦させた航空母艦「飛龍」「瑞鶴」など。更に、戦艦に比しても劣らぬ巡洋艦など。それらの戦記や逸話の掲載されている本は数多く発刊されている。
しかし、小艦艇である駆逐艦や、海防艦の戦争記録は数少ない。駆逐艦は魚雷攻撃を主力とし、速力も速く、小回りがきゝ、警備警戒、船団護衛に従事した。この度、駆逐艦である「春風」が、如何に戦ったのか戦場体験の証言などを後世に語り継ぎたい思いから、本書を発刊することとした。
「春風」の所属する第五駆逐隊は、竣工当初は大湊要港部に所属していた。北方海域カムチャッカなどで、漁業の安全操業がソ連に脅かされていたことにより、その警備警戒にあたっていた。その後、昭和十年の海軍大演習に、赤軍の第四艦隊の一員として参加した。台風並の暴風雨により、大破する船が続出し、演習は中止となったが、「春風」は艦体の一部が小破で納まった。以後「春風」を含む第五駆逐隊は、台湾の馬公要港部に移り南支警備となり、南支那海の大陸沿岸の警備、航行遮断などにあたった。
太平洋戦争勃発よりは、主として、輸送船団の護衛と云う、一見地味な仕事に従事していた。昭和十七年三月一日のバタビヤ海戦に参加し、「春風」の展張した煙幕で味方の輸送船を、敵潜から守るなどの他、「春風」が発射せる魚雷を敵巡洋艦に命中させ大火災を発生させるなどの激戦であった。その時の「春風」は、舵などを小破したが応急修理で引続き船団護衛を続けた。この海戦が「春風」唯一の海戦である。
その後も、日本から、南方へ陸軍将兵及び兵器、舟艇などを満載した船を、パラオ、台湾、マニラ、シンガポールなどへ輸送する船団の護衛。また、シンガポールや、海南島の三亜、ボルネオのミリ、マニラなどからの鉄鉱石や、ボーキサイト、原油など輸送船団と、南方からの引揚者、帰還兵などを満載した船団の護衛に当たった。
昭和十七・八年頃は、アメリカ軍の飛行機の攻撃、潜水艦による攻撃も少なく、平穏に航海することが出来たが、昭和十九年の春頃から、潜水艦の出没が多くなり船団が攻撃を受けるようになった。特に夏頃からは益々激しくなり、敵潜の放った魚雷が命中し沈没する船舶が増えだした。そこで船団の船舶数を増やし、護衛艦も増やし対潜掃蕩をしながら護衛にあたるようになった。特に、日本から南下する船団が台湾を過ぎてマニラ方面へ航行する際に被害が多かった。
しかし、「春風」が護衛する船団には、被害が少なく、十九年十月までに、二隻の船が葬られたが、残りの何十隻もの船は無事に目的地に護送することが出来た。
ところがその十九年十月二十日に台湾高雄港に向け、マニラ港を出港した時である。「春風」は、南方から資源を積んだ十二隻の船団の護衛に当たっていた。旗艦である「春風」の他、四艦艇の護衛のもと航海は、最初平穏に見えたが、三日後の二十三日夕刻になって敵潜の襲撃が始まった。翌二十四日の二日間に、十二隻中九隻に魚雷の集中攻撃を受け沈没した。残った小型船により、乗組員や便乗者の救援にあたり命からがら二十六日高雄港に入港することが出来た。これが「春風」最後の船団護衛となった。

「春風」は、奇跡的に沈没を免れたことが二度ある。その一つは、昭和十七年三月のバタビヤ沖海戦の八ヶ月後の十一月十六日スラバヤ沖航海中の出来事である。北水道附近を航行していたところ、機雷の発見が遅れ、「春風」の右舷、艦橋前数メートルのあたりに機雷が接触し大爆発を起した。「春風」の艦橋少し前より、爆発により、艦体前部が破裂しもぎとられた。火災が発生したが幸い全体に及ばず消火でき、艦は前部を喪失したが沈没は免れた。もぎ取られた前部は、そこに居た十数名の乗組員を乗せたまゝ離れて行き遂に沈んだ。

次なる奇跡は、昭和十九年十一月四日のことである。「春風」は、対潜掃蕩の命を受け前日の三日、高雄港を出て、台湾とルソン島の間のバシー海峡に向かった。丁度「春風」の夕食時の午後五時過ぎ、敵潜水艦から放たれた魚雷三本中の一本が「春風」の左舷後部兵員室あたりに命中大爆発を起す。弾薬庫の誘爆もあり、第二居住区以下艦尾十五メートルが吹き飛んだ。推進器、操舵軸もへし曲り、航行不能の状態になったが、幸いにその後の攻撃もなく、火災も鎮火し再度誘爆することなく「春風」は沈没を免れた。この被雷により、乗組員百八十余名のうち戦死、行方不明七十九名、重傷者二十九名を出した。奇しくも二年前の機雷による前部喪失も十一月であり、これも同じ十一月であることは只の奇遇であろうか。
「春風」は、曳航され、馬公港に入った。昭和二十年の一月、今度は、アメリカ空軍のグラマン戦闘機F四Fや、F六Fの艦載機数十機に及ぶ空襲を受けた。動けない艦を目がけて攻撃してくる。一月十五日の攻撃は、強風のため投下される爆弾は一発も命中せず、逆に「春風」の機銃が火を吹き数機を撃墜した。一月二十一日には、たった四機のうち二機のグラマンがいきなり方向転換し「春風」目がけて突っ込んで来た。グラマンが落とした爆弾は、艦橋附近に命中爆発を起した。この二つの対空戦に於て数人が戦死、数人が重傷を負った。また三月十四日には、ボーイングB二十九が飛来し、入渠中の「春風」が狙われたが、落とされた爆弾はドック周辺に逸れ、「春風」に異常はなかった。しかし、総員退避の号令で近くの防空壕に逃げこんだ乗組員数名がそこで戦死した。

 「春風」の戦闘。小さな軍艦が大海原での戦いが、如何に熾烈であったか、詳しくは次章以下をご繙読頂きたい。

ページの先頭へ